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2011年07月29日

●気分のファシズム(7/31一部改訂)

※当初想定したより沢山の方々にこの記事をお読み頂いているようなので、より丁寧に
 文章が自分の思考をより正しく反映するよう、一部改訂しました。(7/31 3:05am)

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ファシズムは、正義の貌をしてやって来る。

震災直後から、Twitterなどで「気分のファシズム」という言葉を度々使ってきた。

それは、震災以前―恐らく、僕が気付くずっとずっと以前―から、この国に存在した。
それが福島第一原子力発電所事故などの深刻な事態を契機として、一気に表出してきた感がある。
実際には、小泉首相時の郵政選挙の時も、現政権与党が地滑り的勝利を得た時も
この気分のファシズムが作用したと僕は考えている。
個人的には、1993年の細川政権の誕生(つまり55年体制の崩壊)辺りには既にその萌芽があり、
95年以降のWebの発展がそれを加速・拡大させたような印象を持っている。
念の為に云っておくが、今回このエントリーを書くに当たって背景となった事象はたくさんあり
飽くまでも自分の中で、このワードが顕在化したのが今次の原発事故だというだけなので、
そこはご理解賜りたい。

(また全く蛇足だが、僕は原子力発電を推進する気はまったく無いし、
人間の安全保障を考えた場合、将来的に全廃するしか途は無いだろうと思っている。)

未曾有の危機に瀕した時、人々は救世主やヒーローの出現を待望する。
例えば昨今の空気に乗じて、ソフトバンクの孫正義氏や、フリージャーナリストの上杉隆氏、
元?俳優の山本太郎氏などが名を上げた。

僕は彼らが「発言すること」自体はなんとも思わない。支持もしない。
僕は僕なりに彼らの発言やその背景、事実関係などを調べ、考えた上で支持しないだけ。
とは言え、彼らの心情は理解できる部分もあるし、全てを否定するつもりもない。
支持しない、というのは例えば「全量買取制度を前提とした自然エネルギー産業への参入」であったり
「プロパガンダに逸脱した報道姿勢」であったり「県庁に突入しようとする直情的行動」というような
出力の部分などに拠るものが多い。「部分的には理解するけど、全体としては賛成しない」というようなもの。
それは飽くまで僕個人のスタンスであり、これを表現することはあっても、人に強要はしない。

僕が一番恐怖を感じるのは、彼らを支持する人々の一部に
極端な同調圧力を懸ける勢力が居ることだ。

その勢力は、明確に組織されたものではない。
誰か(その多くはジャーナリストやタレントなどの、比較的わかりやすい記号を持っている)の
意見や主張を軸に集合する、ヴァーチャルな勢力だ。
だが彼らの声はTwitterのタイムライン上などを跋扈して
自分たちと一致しない意見を持つ人々を徹底的に攻撃し、排除し、
社会的(或いはWeb社会的)に圧殺しようとする。
例えば「原発は現状全廃が難しい」という意見を、学者が云えば御用学者と指弾され
TVのコメンテーターが云えばマスゴミの陰謀だと糾弾され
一般の人がWeb上で発言すれば東電関係者か気狂い扱いされる。

彼らは自分「たち」の主張こそが絶対的な正義であり、
それに反する意見や主張は悪だと決め付ける悪しき傾向がある。
自分たちの正義にマッチする情報であれば、その出所が怪しかろうが持て囃されるし
その逆の場合は、どんなに客観的なデータであれ恣意的なものであると無視される。
対話ではなく同調だけが求められ、議論ではなくシュプレヒコールへの参加だけが要求される。

広瀬隆氏らが所謂「御用学者」などを刑事告発したことなどは
美濃部達吉の天皇機関説が徹底的に排撃された構造と何が違うのだろう。
表現者が対立する思考を犯罪と規定するのは、表現の自殺と同義であるとなぜ気付かないのだろう。

例えば先の九州電力のメール問題、原子力安全・保安院の中部電力へのやらせ要請など
実態としての問題行為は指弾されても当然だと思う。
彼らはその主張に本当に自信があるのなら、正々堂々と議論を挑めばいい。

ただ彼らの主張を検証なく叩き潰すような風潮が、彼らを隠蔽体質に追い込んだという可能性も排除できない。
その点からも、意見の表明や主張を「感覚的に」攻撃するのは間違いだと思うのだ。

そもそも正義に絶対性は無い。正義とは利害関係者の相対性でしか存在し得ない。
例えばイスラエル軍とパレスチナゲリラの関係だって、正義対正義の衝突でしか無い。
社会が成熟していく過程で尊重される「多様性」は、
「正義」が持つ一面性、その危険性を社会が認識しているからではないか。

ところが誰かをカリスマのように祀り上げ、支持者が一定量を越えると
その主張は絶対視され始め、急速に思考停止が拡がり、
主張への検証は為されないまま同調圧力だけが高まっていく。
それは約70年前、ファシズムが吹き荒れた時代と似ていないか。

誰かの主張や表現に、個人が同調するのはまったく自由だし、なんの問題も無い。
ただ、それを他人に強要したり、批判や他の意見の表明を封じることは許されない。
まして非同調者を攻撃することは、ファシズムの一端を担う非民主的行為であることを自覚すべきだ。
戦時、全体主義国家ならではの「大政翼賛会」を支えたのは国民だ。

ナチス・ドイツは最終的にどうなった?
大日本帝国はどんな末路を辿った?
そこまで考えなくたって、地滑り的勝利で政権を獲得した民主党の政権公約がどれだけ果たされて、
現状社会がどうなっているかを考えただけでも、一面的な正義が持つ危険性は理解できるだろう。

ところが、気分のファシズムは多様な意見の存在を認めない。
自分の支持する意見は無検証・無批判で迎合しがちで、
相対する意見は「根拠を出せ!」「その根拠は情報操作だ!」「そもそもお前は御用○○だ!」となりがちだ。
複数の意見・主張を並列的に検証することが非常に少なく、
下手をすると或る人の表現の表層や一部のみを論って苛烈に攻撃する。
これは文字数制限があるTwitter上で数々見掛けたのだが、
結論の部分では同じ事を言っている人に対して、
その人の一部の表現(それは度重なるRTなどで編集されていることも多い)を曲解して
「お前は○○だろう!」と真逆のラベリングをして、人格否定を伴う攻撃をしていることまである。
こうなるともう苦笑すらできない。
批判の前に、批判する相手の主張をひと通り読むことすらせず、相手を攻撃している訳だ。

何故そのようなことが起きるか。
気分のファシズムの温床になっているWeb上(特にTwitterなど)で考えてみると

・TL上のトレンドを把握しようとすると、まずはトレンドの対象となる事象や発言の要旨だけ目にする。
・TL上の個々の意見は、ソースはURLで記述され、テキストは感想や感覚などの表現が主になる。
・つまり事実関係よりも、それを取り巻いている「空気」や感覚を先に取得する。
・結果先入観が発生し、ソースを検証しないまま・或いは十分な思考を経ないまま、意見を表明する。
・するとソースに対する検証や思考、裏取りが非常に少ない状態で、空気だけが飽和する。
・そこに、何らかの記号を持った人(著名人など)が発言し、その空気と合致すれば一気に祀り上げられ
 逆の場合は炎上する。

こんな構造ではないかと考えてみた。
Twitterの構造が、事実よりも感覚を表現しやすく、それ故に検証よりも感覚の増幅が先行する。
最初に「震災以降、気分のファシズムが顕在化した」と書いたのは
おそらくTwitterのユーザー拡大と震災が、時期的にシンクロしているからだろう。
(事実、前月は減少していたTwitterユーザーは、震災の3月に急増している。ソースはこちら。)

事実の検証や、それに基づく思考によって自分の見解を構築するよりも
誰かの意見や主張に乗っかるのは、ある意味「ラク」な方法だ。
そしてその「ラク」が積み重なり、思考が不足した母数が一定のラインを超えると
無責任な感覚の集合体である「気分のファシズム」が出現する。
みんなこう思っている(はず)だから正しいんだ、という根拠なき正義が先鋭化する。
みんなこう思っている(はず)なのに、なんでお前は違うことを云うんだ?と
根拠なき感覚が、意味(或いは意義)のある意見を攻撃する事態が発生する。

でも、その頃には誰もがその「みんな」が空集合に過ぎないことを忘れている。
感覚の集積には根拠がなく、根拠のない主張には責任がなく、
責任がない方向には未来が無いことを忘れている。

社会の動きを知ろう。それを検証し、思考し、自分の意見を持とう。
その意見を以って他の意見を聴き、考え、検証し、議論しよう。
誰かを攻撃するばかりの人の言葉は、疑ってかかった方がいい。
誰かの言葉に同意するのなら、それは攻撃ではなく、建設的な意見を軸にした方がいい。
「貴方のこの点は賛成だけど、あの点は同意できない。なぜならこうだからだ。」と意見しあうことで
よりそれぞれが信じる正義の精度を高める努力をするべきだ。
現実と理想の乖離を防ぎ、実際に社会を変革するためのトルクを生み出すべきだ。

また、その「感覚の空集合」につけ込んで、その空集合に「ウケる言葉」で勢力を獲得しようとする
ポピュリスト達(しかも彼らは特定の思想や思考、利益の動機を持っている)が居ることも忘れてはいけない。
この国は、ここしばらく、ずっとこのポピュリストにいいように乗せられて
結果酷い目を見ていることを忘れてはいけない。

選挙にも行かずに社会を批判し、一方で誰かの意見に無思考に乗っかり、反対意見に罵声を投げつける
そんな大人にならないよう、もっと考え、検証し、他の意見を聴き、自分の考えを持ちたい。