師の訃報に接して

熊さん、覚えていますか。
あの、阪神大震災復興支援コンサートが
内々定から一転、ご担当者様の死によって見送られたあの日。
KBCに入社して、あんなに夢中になって企画を建てたのは初めてで
あんなに心を込めて、祈るように企画書を書いたのは初めてで
岸川さんが無理やり1月17日のサンパレスをこじ開けてくれて
代理店の支社長さんも、次長さんも「本当にありがとう」って言ってくださって。
だから、あの結論が信じられなくて、余りにも辛くて、悔しくて
ラジオのフロアで泣き叫ぶ僕を
熊さんは首根っこをひっ捕まえて、会社から引きずり出しましたね。
まだ準備中のモツ鍋屋に無理やり入って
落ち着け、落ち着け、とビールを飲ませましたね。
こんなことはまま有る事。時として諦めることも必要だ。
でも、この仕事に懸けた思いだけ忘れずに胸の中に収めておけばいい。
熊さんはそう諭してくれましたね。
熊さん、俺、あの日の企画書
未だに時々読み返すんです。
この世界で戦い続けるために、仕事に想いを込め続けるために
あの日の記憶を、まるごと胸の中に置いておくために。
「お客のところには一日に三回行け。行く理由がなくても、居場所がなくても行け。」と言われて
最初はなんて理不尽なことをいうオッサンだ、って思いました。
でも、あの大手門の代理店でそれをやり続けたある日、S課長から
「お前いい加減にしろ!この案件くれてやるから会社に帰れ!」と笑顔で発注書を貰った時
熊さんに心から感謝したこと、昨日のことのように思い出します。
別府橋にご自宅があった頃、一度お休みの日にお邪魔しましたね。
奥様が美味しいご馳走を作ってくださって、はにかみ屋さんの娘さんとおしゃべりして。
何を話したかはもう思い出せないけど、あの日の帰り道、
嬉しかったことは忘れません。
熊さん、覚えていますか?
チャリティ・ミュージックソンの企画で、熊さんがデタラメな企画で売ってきて
朝一番でGさんと喧嘩になった時。
「俺は看板ば作るっちゃ言うとらんばい。看板みたいなのば作るって言ったとばい。
G、あんたワープロでチャチャッと打っとかんね」と言い放った熊さんに
僕が吹き出して、Gさんも熊さんも思わずつられ笑いして。
あんなに大笑いしたのもなかなかなかったですね。
結局Gさんが色々無理をして、会場にはちゃんと看板があったんじゃなかったかな。
熊さん、まだまだありますよ。
スポンサーの名前を平気で間違えたり、お客に電話する時、名乗るのはいつも最後だったり
酔っ払うとモツ鍋になんでもかんでも放り込んだり
見た目はその筋の人みたいな強面なのに、テニスが大好きで、奥様ともテニスコートで出会って。
笑うと博多仁和加にそっくりで、誰からも好かれていて、営業部員はみんな熊さんのモノマネして。
俺が熊さんのモノマネで、「ダブルバスターズ」のコントコーナーに出演して
それを聴いていたFさんが脱輪しそうになった時も
熊さんはにやーっと笑いながら
「お前、俺に著作権料ば払わないかんめーもん」と笑ったこと。
熊さん。
熊さんとの思い出は、俺の駆け出し時代の
恥ずかしくて、ダサくて、でもキラキラしていた頃とキッチリかぶってるんです。
嬉しかったことも、悔しかったことも
笑ったことも、泣いたことも
全部全部、その傍に熊さんが居たんです。
熊さん。
僕は熊さんを始め、KBCの先輩方に、ラジオマンの基礎を作って頂きました。
いまこうして、東京で独立してラジオの仕事を出来ているのは
熊さん達大先輩の薫陶があったからです。
でも俺、まだ一人前になれたと思えないです。
あの頃の熊さんみたいに、強くて優しくて、デタラメなのに誰からも愛されるような
そんなラジオマンにはなれてないですもん。
でも、一人で歩いて行かないとダメですよね。
頂いたものを、次の世代に渡していかなきゃいけないですもんね。
熊さん、俺、頑張ります。
熊さんみたいな大人物にはなれませんけど
スポンサーの前で社名を間違っても平然とはできないけど
そんな時の、あの茶目っ気たっぷりの笑顔ができるようには
しっかり頑張ります。
いつか……まだ時間は当分かかるけど
お会いできた時には、またモツ鍋つつきましょう。
でも俺、あんまりお酒は強くないままだから
潰さないでくださいよ。
それまで、俺がサボらないように
くじけないように
見守っていて下さい。
熊さん。
熊さんは、俺のラジオマンとしての
そして人生の先生でした。
本当にありがとうございました。
ゆっくり休んで、旨い芋焼酎を飲んで下さい。