思い入れって難しい。

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さて、今ある企画書を書いているのですが、これが随分難産になっています。
ネタが無いのではなく、考えが溢れだして、統制がとれないんですね。
内容は、地震に関する防災と生活再建についてのもの。
普段の仕事と違い、個人的に極めて思い入れが強くて
すっきりした企画にならないのです。うーん。
以前にも書いたかもしれませんが、僕は1995年の2月3日。
阪神・淡路大震災の発生からおよそ半月後に神戸に入りました。
大阪からJRで西に向かったのですが、武庫川を越えた途端にブルーシートを懸けた屋根が目立ち
代替バスの発車地である住吉に着いた時は、既に茫然としていました。
住吉の電柱に貼ってあった「見物客は帰れ」のメモ書き。
三宮駅前の歩道橋から眺めた想像を絶する光景。
その歩道橋の、携帯電話や工務店のビラに紛れていた「この震災は天罰」という宗教団体のアジビラ。
全てのガラス窓が破れた神戸新聞社と、その後ろを通るポートライナーの寸断された高架。
潰れた生田神社。落ちた阪神高速のランプウェイ。
三宮発のバスに乗る為に、物資を抱えて並ぶ数千人の人々。
そして最も衝撃だった、新長田駅から見た一面の焼け野が原…。
その後、福岡空港でのガルーダ・インドネシア航空機の離陸失敗事故
新潟の中越地震などの現場にも立ちましたが、あの時感じた衝撃と恐怖に勝るものはありません。
写真も録音も無いのに、16年前の景色をありありと思い出します。
あの年の秋、ある大企業に震災被災者救援の為の企画を提案したのですが
「この企画を実施するには、全社員がその重みを理解しなければならない」という理由で通らず。
僕の何か出来ないか、この企画で被災者の方々に手助けできないか、という必死の願いと
自社の事業所も大きな打撃を受け、複数の社員の方が亡くなったという事情を抱え、
それを軽々にひとつの広告企画として受け止めてはいけないという提案先の気持ちは
おそらく同じものであったと思うものの、当時は物凄く辛かったことを覚えています。
それ以降、数年に及んだ神戸での「定点観測」や、
中越地震の現場で調査を行った、メディアの大災害現場での機能事例とその分析などを経て
未だに自分の中で、ラジオマンとして出来ることを考え続けています。
時に自分が目指すべき方向性が分からなくなりかけた時は、当時の企画書を引っ張り出して
自分の指針にしています。
今回、ふとしたきっかけから前述の企画を提案する機会を得て
今度こそは自分の想いと、自分の会社が出来る社会への貢献を果たすものとして
何とか決めたい!と意気込んでいるのですが、その気持ちが空転気味なんですね。
どんなに高尚な理念を持っていても、それが具現しなければ意味はありません。
また、折角16年もずっと考え続けてきたテーマだからこそ、無駄にはしたくない。
ここをラジオのプロフェッショナルとして、どう整合させるか、自分のこれまでの経験が試されます。
私たち人間のひとりひとりが出来ることには限界があります。
しかし、メディアビジネスに携わる者の大きな利点として、沢山の人々に
防災の大切さと、罹災時の互助、生活再建の為の知恵を知って頂けるように
精一杯頑張りたいと思います。
あの日の、神戸での誓いがいつか形にできるように
諦めずに、自分の仕事の大切なテーマとして挑み続けたいと思います。
さあ、頑張るぞ!