霧笛荘夜話 |
浅田次郎氏の著作には
どうにもならない境遇に喘ぎながら、それでも生き抜こうと足掻く人々がよく登場する。
そしてその周りに、まったく逆の天衣無縫なキャラクターを配することも多い。
「天切り松 闇がたり」の左文字楼の康太郎であったり(彼は彼で「廓の子」という懊悩があるが)
「聖夜の肖像」の久子の夫や、「霧笛荘夜話」の眉子の前夫であったりがそれだ。
育ちの良さと、そこから来る如才のなさに
主人公は息苦しさや切なさを感じ、傷つく。
その天真爛漫さは、時として主人公の心や人生を破壊する一因になったりもする。
この「育ちの良い如才なさ」は
育ちの悪い人間にとっては居心地が悪く、相手はその善意故にそれに気づかない。
或いは、誰が見ても「良く出来たもの」が
実は受け容れる側にとって
苦渋に満ちた判断を問われていることに気づかない。
育ちの良い「当たり前ですよね」や「仕方がないですね」は、
相反するものにとって身を切られるようなものであることさえある。
昏い水底から見上げる太陽は
眩しいことは判るのに、揺らめく波で常に歪んで見える。
その水底に棲み続けるのか
或いは陸に這い上がるのか
一足飛びに空を翔けるのか
それは本人の意志に拠るものだけではないことは
水底の視線を意識してから知ったこと。
その上で、どうやって世間様と折り合いをつけて生きるのか。
不惑を迎えても、なかなか答えは出ない。
ただ、誰彼構わず自分の棲処に引き摺り込むような
そういう生き方はしたくない、と思う。
多分それは、自分に約束できる
唯ひとつの矜持なのだろう。