僕の、一生の目標。
放送作家の河野虎太郎さんと、Facebookで話していて
僕の師である岸川均さんのことを思い出しました。
思い出しながらTwitterに書いたものを転載します。
話の脈絡がメチャクチャな乱文ですが、お許し下さい。
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かつて新人発掘の全国オーディションを手掛けた時、
布袋寅泰さんに総合プロデューサーへの就任をお願いに上がった。
一生懸命プレゼンして、今どき君みたいなラジオマンがいるんだね、と事務所の社長さんに言われた。
それは師匠の岸川さんの影響です、と答えた。
すると社長さんが驚かれた。
社長がBOOWYのマネージャーだった頃、岸川さんにとてもお世話になり、
よく愚痴を聴いて貰い、あの笑顔に力を貰ったんだと仰った。
あの頃岸川さんにお世話になった僕が、岸川さんの弟子である君の力になれるなら嬉しいと言われた。
その後、布袋さんと事務所の皆様に大変お世話になり、
氏のシングルとアルバムに名前までクレジットして頂いた。
「私たちの気持ちです」とマネージャーさんと専務さんにお言葉を頂いて、
広尾の事務所で人目も憚らず大泣きした。
僕は岸川さんが亡くなってからも、力を頂いていたのだと知ったから。
その後も東京で、様々な局面で、
「岸川均の弟子」というだけで大変良くして下さる方がたくさんいらっしゃった。
いったい岸川さんの人徳はどれだけ広く、暖かく、
音楽やラジオに携わる人びとを支えたのだろう。
駆け出しの頃に岸川さんの薫陶を受けたことは、僕の誇り。
岸川さんが亡くなった直後、
山下達郎さんがSUNDAY SONG BOOKを岸川さんに捧げる回になさった。
会社でOAを聴いてまた泣いた。
同録をKBC時代の上司に託し、奥様にお届けした。
奥様は岸川さんの携帯から、お礼の電話を下さった。
「岸川さんからの着信履歴」をずっと消せなかった。
阪神大震災が起きた年の秋、お客様から機会を頂き、
震災一年の日に神戸と福岡で、それぞれの出身のアーティストを集める
復興支援コンサートの企画を建てた。
その日のサンパレスは埋まっていた。
どうしてもやりたいんです、と岸川さんに伝えたら、
岸川さんは電話数本でサンパレスを空けてくれた。
当時の僕は24歳。
洟垂れ小僧の青臭い企画を真正面から受け止めて、
何も言わずに動いて下さったのが岸川さんだった。
企画は全く意外な事情で決まらなかったけれど、
あの日岸川さんが背中を押してくれたこの企画書は、17年経った今でも持っている。
岸川さん、僕は成長できていますか。
お会いしたいです。