この記事に違和感を感じたので、思ったことを。
まずリンク先の記事をご一読頂ければ。
田原総一朗氏らが基調対論 ツイッターでジャーナリズム「変わった」(毎日新聞)
僕はこの中にある佐々木俊尚氏の「社会を再結成、再構築する方向に向いている」という
ポジティブな印象に読み取れる分析に、強い違和感を抱いた。
個人的には、最近の「SNS上の社会」(ここは厳密に定義したい)には寧ろ
「ハニカム全体主義」とでも形容すべき、危険な構造が醸成されつつあると分析している。
ハニカム全体主義というのは僕が思いついた造語でしかないんだけれども
80年代、個人向け消費財が進化する過程で発生した、「個人のコクーン化」に、
90年代中盤から始まったIT革命以降の「個の発信」機能が付加されて、
ラウド・マイノリティという存在が看過できない存在になっていることを下敷きにしている。
まあ、何かが起きるとブンブンブンブンと蜂の巣をつついたように姦しくなる
昨今のWeb界隈のメタファーもありつつ…(笑)
Webの匿名性をコクーンの担保として、一方で酷く感情的な言動を個々が発信し、
同じ空気をSNS上で共有すると、それが巨大な感覚の集合体になり、
同調圧力を伴ってWeb社会上を闊歩する。これを蜂の巣構造(ハニカム)の全体主義と名付けてみる。
この傾向は、Webにおける個人レベルの情報発信が
Webサイト→Blog→SNS→Twitterなどのソーシャルメディア…と簡便になるに連れて
次第に強まっていると思う。
リテラシーが決して高くない人びとが参加しやすくなったことが影響しているのではないか。
まだWebがイノベイターやアーリーアダプターのものだった頃は、今のような付和雷同な動きは少なく
寧ろ何でもかんでも議論、議論だったような気がするのだ。
(まあ、それはそれでメンド臭かったりするんだけれども)
ハニカム全体主義は、個の閉鎖性を維持したまま、
意識の集合が巨大化するという、新しい社会性を帯びている。
それを再結成・再構築と指摘するのであれば、佐々木氏の分析は正しいと思うが
僕はそこにポジティブな印象を持つことができない。
感情と、それを集約した「空気」が、SNSのような限定された空間に充填されると
これまで以上に無責任な世論が形成されると思うからだ。
まして、なんとなくソーシャルメディア上での世論が実社会の世論と混同されがちな現在において
その危険性は非常に高いと考える。
僕が度々指摘している「空気のファシズム」は、このハニカム全体主義と同義。
思考が深まらず、感覚や気分だけが飽和して、実体社会に影響し過ぎるのは問題だと思う。
この点において、SNSの功罪は常に考えなければいけないのではないか。
事実、アラブの春を経たチュニジアやエジプトの混乱は
意志の中核や主体を持たない―つまりポスト体制の具体的な絵図を描けない
「烏合の衆革命」の脆弱さを浮き彫りにしていると思うのだ。
そこにあるのは民主主義ではなく、気分の全体主義だ。
この高度情報社会で大事なのは、溢れかえる情報の中で
考え、自分の分析を持ち、その上に自身の意見を構築すること。
SNSに溢れる「気分」を感じることを、考えたと勘違いしがちだがそれは違う。
最近「情報のキュレーター」なんて存在が持て囃されたりしているが
それすら疑ってかかってもいいと、個人的には思っている。