昏い水底から。

霧笛荘夜話

霧笛荘夜話
価格:580円(税込、送料別)


浅田次郎氏の著作には
どうにもならない境遇に喘ぎながら、それでも生き抜こうと足掻く人々がよく登場する。
そしてその周りに、まったく逆の天衣無縫なキャラクターを配することも多い。
「天切り松 闇がたり」の左文字楼の康太郎であったり(彼は彼で「廓の子」という懊悩があるが)
「聖夜の肖像」の久子の夫や、「霧笛荘夜話」の眉子の前夫であったりがそれだ。
育ちの良さと、そこから来る如才のなさに
主人公は息苦しさや切なさを感じ、傷つく。
その天真爛漫さは、時として主人公の心や人生を破壊する一因になったりもする。
この「育ちの良い如才なさ」は
育ちの悪い人間にとっては居心地が悪く、相手はその善意故にそれに気づかない。
或いは、誰が見ても「良く出来たもの」が
実は受け容れる側にとって
苦渋に満ちた判断を問われていることに気づかない。
育ちの良い「当たり前ですよね」や「仕方がないですね」は、
相反するものにとって身を切られるようなものであることさえある。
昏い水底から見上げる太陽は
眩しいことは判るのに、揺らめく波で常に歪んで見える。
その水底に棲み続けるのか
或いは陸に這い上がるのか
一足飛びに空を翔けるのか
それは本人の意志に拠るものだけではないことは
水底の視線を意識してから知ったこと。
その上で、どうやって世間様と折り合いをつけて生きるのか。
不惑を迎えても、なかなか答えは出ない。
ただ、誰彼構わず自分の棲処に引き摺り込むような
そういう生き方はしたくない、と思う。
多分それは、自分に約束できる
唯ひとつの矜持なのだろう。

皐月の午後の徒然書き。

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ブレゲにしては、純正ベルトは比較的良心的な価格なのですが。

・ベルトを替えるか替えまいか。
往く春を惜しみ、昨日・今日とブレゲ・アエロナバルを着けています。
僕のアエロナバルは、カミーユ・フォルネ製のクロコマットの純正ベルトが付いているのですが
購入して2年、そろそろこのベルトが傷んできました。
なるべく暑い日は避けていたのですが、購入した年の夏にでっかい汗染みをつけてしまい
馴染んでいく革の風合いを楽しみたくともどうにも気になります。
また、へり返し仕立ての剣先の部分もちょっとくすんだ感じに…まあ、神経質なのかもしれませんが。
以前、青山のルーツで夏用のベルトをオーダーしたのですが
納品した直後にルーツが夜逃げ。験が悪いのでこのベルトは使っていません。
やはり一番好きな時計は、気持よく使いたいですよね。
幸いアエロナバルの純正ベルトは意外にも安価で、いまのものと同じクロコマットなら4万円。
カーフなら1万円ちょっとで買えてしまいます。(フォールディングバックルは4万円ですが。笑)
いま着けているベルトを夏用として、秋用に新しいのを買おうかな、と考えています。
・記憶についての雑感。
最近、記憶というものについて考えています。
人間は、特にエピソード記憶と呼ばれるものを、自分に都合の良いように変質してしまいます。
いい記憶はより良い記憶として、悪い記憶は忘れたり自分の中で消化できる内容に書き換えて。
そのように、自分に都合の良いように記憶を操作することが出来るからこそ
人間はその長い人生を生きて行くことができるのだとも聞いたことがあります。
ただ、喜びと苦しみ、嬉しさと悲しさが混交するような記憶は
なかなかその変換や最終処理が進まないようです。
特にその記憶を根拠として、自分の中に何らかの戒めを持っているとしたら…。
良い経験だけを選択的に記憶すれば戒めを忘れ、再び同じことを繰り返してしまうでしょうし
悪い経験を記憶したくない、と願っても、同居する良い経験がそれを阻む。
そのせめぎ合いが、経験を幾度も反芻させ、確たる居場所も持てぬまま、体の中を漂うのです。
その漂流する記憶は、時折意識の表層に浮かび上がり
戒めを忽せにしようとするのです。
思考が内へ、内へと進む傾向がある僕にとって、これはかなり厄介な問題。
時としてその思考に結構なリソースを割かれることもある為、自律の手法を考える毎日です。
………
本当は、あと一つ書こうと思っていたことがあるのですが
これについてはもうちょっと時間が必要なようです。
完全に独り言にしかなっていないエントリーですが、自分の意識を俯瞰するためですので
どうぞご容赦を。
では、素敵な週末をお迎えください。

18years.

18years.jpg
別に視力が悪くなった訳では無いですが。
しかし老けたなぁ。

さあ、4月になりました。
新年度ということで、新しい会社・新しい部署・新しい街・新しい学校など
様々な局面で、新しいライフステージに突入された方が多いのではないでしょうか。
年度終わりに未曾有の震災が発生したことで、大変なご苦労をなさっている方も多いと思いますが
今日はどうか「前を向く日」を共に過ごせるよう、お祈りしております。
TwitterのTLを眺めていたら、お取引先の方が「今日から5年目」と書いていらしたので
自分はそういえば何年目だ?と指折り数えてみたら、なんと19年目でした。
もう18年間も働いているのかー。
1993年の4月1日、福岡市中央区長浜の空はとても青くて広くて
九州朝日放送の鉄塔の先を見つめながら、頑張るぞー!と意気込んでいたのが
ついこの間のような気がします。今日の青山の空は、あの日と同じように青くて広いです。
あれから18年で、住む街も働く会社もしている仕事も見た目も(笑)変わってしまったけれど
自分の中味はどう変わったのだろう、と考えています。
自分自身では変わっていないつもりでも、傍から見たら違うかもしれないですし…。
仕事の技能とか、その処し方は多少なりとも進化したでしょうが
仕事に対する情熱は自分のなかで、あの頃のように燃え盛っているか?と自問しています。
一方で、悪いところは変わって無いな、とも反省しています。
いちばんダメなのが、人との接し方。相変わらずその辺は不出来なままです。
もっと大人にならなきゃいけないし、その為にも心の持ち方を進化させなくちゃいけない。
始まりの日は、過去を反省するいい機会でもありますね。
いつまでも澱みない姿勢で自分の人生を送ることができるように
考えながら今日を過ごそうと思います。

Cabotine

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写真と本文は全然関係ありません…が、
最近毎日の時計をここにアップしています。お暇なら。
実は今回はこのことがお伝えしたくて更新したようなもんです(笑)

昔、カボティーヌという香水が好きだった。
やがて、その香りが嫌いになって
それを着けている人が近くに居ると、憂鬱な気分になった。
それから随分時間が経って
ふと、その香りを全く思い出せなくなっていることに気付いた。
一生忘れないだろう、と思っていたから
すごく驚いた。
日々、苦しいこととか、厭なこともあるけれど
もう二度と立ち上がれない、と項垂れることもあるけれど
いつか、そんなこともあったな、と振り返ることが出来るようになる。
その為にも、頑張らなきゃなぁ。
大苦戦の第3期も、残すところあと一週間少々。
来期は新番組も始まるし、がっつり働きます!

四十にもなると。

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本日の時計はブレゲのRef.3210BB!着けてるだけで健康になれそう!?(クリックで拡大)

さて、表題の通り
四十にもなると、嘗ては「健康だけがとりえです!」なんて云ってたのに
身体のあちこちにガタが来るようです。
少なくとも30歳までは風邪や腹痛くらいしか病気をせず
バイクで事故った時以外は救急車のお世話にもならず
盲腸も骨折も無縁な生活を送ってきました。
32歳の時にアタマの具合が悪くなった時は、4か月ほど休業しましたが
一年半ほどお医者さんにかかった後は大変元気に生活しておりました。
ところが今は、アレルギーが頭皮に出るという面妖な症状に悩まされ
かれこれ半年以上お医者さんにお世話になっており
あまつさえ2・3ヵ月程前からは、酷い四十肩に悩まされております。
(今日お医者さんに伺ったところ、四十肩は鍼灸院などの民間療法の方がいいとか。
帰りに薬局で薬は無いかと尋ねたら、無いですね!と言われた…)
また最近は、肩凝りが常駐するようになってきたもの悩みのタネ。
更に言えば、一番深刻なのは肥満だなぁ…。
まあ、40年も碌にメンテナンスせずに酷使し続けている訳ですから
調子の悪い部分が出てきても仕方が無いのは理解できるんですけどね。
身体も、時計のようにオーバーホールできればいいのにー。
ちなみに昔から病院に縁が無い生活を送ってきたからか
未だに病院やお医者様は苦手で、注射も薬も嫌い。
アホみたいな話ですが、今回のアレルギーのお薬によって
やっと粉薬をまともに飲めるようになった位です。
また最近、個人的にちょっと色々なことがあったので
(特定の病気とかが契機では無いのですが)
それに輪を掛けて病院が心情的に苦手になっています。
勿論日々健康に留意して、お医者様のお世話にならないのが一番大切ですが
この「病院・お医者さんがニガテ」というメンタリティはなんとかせにゃいかんとも思います。
あー…我ながら爺むさいエントリーだ…
どなたか、四十肩に効く何か、ご存じじゃありませんか?
ガツンと効果のあるものをご紹介して下さった方には、ワタクシが秘蔵して居る
グランド・コンプリケーション時計をプレゼント致します(笑)

尖閣諸島の事件について。

経緯は省き、所感のみ書きます。
もともとTwitterに書いたものを、若干修正・補筆したものです。
—————————————-
今回の尖閣諸島における一連の事件と、それに対する政府の処置について
看過するに忍びなく、筆を取りました。
ここではっきり表明しますが、僕は現在使われている意味での「民族主義者」ではありません。
美しい山河に恵まれ、先達の叡智と矜持によって営々と築き上げられた文化を持ち、
謙譲の美徳と誠意を持った優しい人々が住む故郷を愛しているだけです。
勿論、この国はそんな綺麗な部分だけじゃないことは知っています。
ただ、叶うならその美しい伝統を次代に送る一人でありたい のです。
世界が融和し、人々を隔てる壁が無くなることは理想です。
しかし、事そこに至っても、自らのアイデンティティと故郷は不可分の関係として残ると思います。
個々人の言語や思考、生活態様はその生活環境に強く影響を受けますし、
その生活環境は、其々の地において、数百年・数千年の時を経て最適化されてきたものだからです。
好むと好まざるに関わらず、人の有り様は、その人が踏みしめる大地に拠る部分があるのです。
戦争は愛国心が招くのではありません。
僕は、愛国心が曲解され、腐敗した一現象である強欲と
歪んだ民族への自尊が生んだレイシズムが原因だと考えます。
実際には、戦争を避ける為には、矜持と自己愛が必要です。
自らを誇り、自己を確立してこそ、他者と向き合えると思うのです。
自信の無さは、卑屈さや、その裏返しの尊大さを導きます。
そんな姿勢で、向き合うべき人々と真っ直ぐ話すことなど、出来ないのですから。
EUやユーロなどに見られる、ヨーロッパのユートピア的な価値観とその具体的な試みも、
民族自決の時代を経たからこそ、はじめてその端緒に辿りつくことが出来た筈です。
自らの矜持を堕しておいて、何の融和でしょう。何の友好でしょう。
そんなもの、諂いでしかない。
正義の無いところに真の友情なんて育たない。
相手の過ちを指摘出来ない友情など、どこを信じることが出来るでしょうか。
以前から主張しているのですが
政治を志す者はそのスタンスを問わず愛国者であるべきです。
そうでなければ、国民への真の奉仕は出来ないからです。
保守とか革新とか、右派だとか左派だとか、その手前の絶対条件です。
国を売って民を救うことなど出来ません。
国を売られた民が、どうして自分を誇ることができるでしょう。
先達の築き上げた歴史に報い、未来に資することで
人は自身のアイデンティティに誇りを持てると思うのです。
私たちは、命のバトンをリレーしてきた、千年の選手の一人なのです。
例えば幕末の志士達の残した言葉に。
或いは「きけ わだつみのこえ」に残された学徒兵の言葉に。
素晴らしい実績を残したスポーツ選手の言葉に、なぜ心が震えるか。
私たちは、一所懸命に生きることを、本能的に欲しているからだと思います。
誇りを持ち、輝くことに、本能的に憧れるからだと思います。
ワールドカップサッカーで、様々な国の人々がたたかう。
オリンピックで、様々な国の人々が競い合う。
それで諍いは起きません。勿論まったく、とは言いませんが。
それでも多くの人々が自国選手の活躍に熱狂し、
全ての選手への健闘を称えるのではないでしょうか。
正しい愛国心とは、そのように健全なものです。
例えば、現在の対中経済への影響を懸念する人がいます。
しかし、経済はどんなに長くとも50年から60年のタームでしか考えられません。
一方で、国の在り方や近隣諸邦との外交は
百年を以って一日とし、万年を以って一年とするような大計が必要です。
その国の在り方に、その国に生きる人々の生活環境は築かれるのですから。
総理も外相も国内に居ない状態で、況や地方の法務官吏の判断を
内閣官房が了とする、と発表するような、そんな軽いものではないと思うのです。
事の重大性を軽んじ、余りにも主体性を欠いた判断を下した現政権に
僕は心から絶望します。
今回のことで、日本と、日本に生きる人々が喪ったものは余りに大きいと考えます。
そのことを心から悔み、哀しみが胸を満たすことを禁じ得ません。

しばらく

更新をお休みします。ちょっとの間ですが。
再開などのご連絡はTwitterでお知らせしますので、ご覧下さい。

あの夏の少年。

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これは21歳の頃、親友のFと講義をフケた時の写真…だったはず。
こんな写真まで出てきて驚きましたなぁ。

突然ですが、夏の終わりって昔のことを良く思い出しませんか?
生命感とか、活力とか、そんな感覚が漲る季節が終わるからか
僕はこの時期になると矢鱈と昔の記憶を呼び起こされます。
先週末もふと思いつき、ここ数年壊れたまま放置していたPCからHDDを抜き取って
眠っていたデータをサルベージしておりました。
そうすると、97年から01年くらいの写真やらメールのバックアップやらが大量に出てきまして
思わず感慨に浸っておりましたよ。(本当の目的は古い企画書を読みたかったのですが。)
この時期の僕は、どうにも解決できないストレスを2つ抱えていて
ちょっとでも心に隙があると、そのどちらかに思考を乗っ取られていました。
一度乗っ取られると、果てしなくマイナスな気分が継続生産されてしまうので
とにかくもうデタラメに活動的でした。
仕事も毎日必死だったし、バイクやクルマをいじり倒して乗り回したり、
女の子ともたくさん遊びましたし、主宰のWebサイトでオフ会やったり(笑)
スケジュールをギンギンに埋めて、少しでもマイナス感情が起きないように必死でした。
あれから10年以上が経ち、様々な経験を経て、随分ストレスとの向き合い方も上手になりました。
体力が落ちたこともあるでしょうが、無駄に足掻くより、適当に往なしたり、無視したり出来ます。
ある意味、それが大人になったということなのかもしれません。
ただ、明らかに当時より自分の中の爆発力が萎えているような気がします。
そして、その爆発力を何とか取り戻さなくてはと思っている自分もいます。
あの頃の爆発力の源泉は決して美しいものではなくて、嫉妬だったり、卑屈だったり
その逆の傲慢だったり、更にその裏の現実逃避だったり、とにかく「俺様はこんなもんじゃねー!」と
自分の小ささ、ダメさを否定したくて必死だったのだと思います。
いま再び、幾つかのことで自信を喪いかけているのですが
ここでヘンに「そんなもんさ」と自分に嘯くのではなく、一歩前に、より高くに歩んでいけるように
見苦しく足掻きたいと思っています。
あと3ヶ月もしないうちに、僕は不惑の齢を迎えますが
まだ今は不惑じゃない!と肝に銘じて、惑いまくって、ヘコみまくって、頑張ろうと思います。
大切なものをひとつ喪っても、ふたつ大切な何かを得られればいい、くらいの意志で。

そんなことを考えている時、いつも浮かぶのがこの曲です。
なかなかいい曲ですよ。

青山/金曜/25時。

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実はこの現象は2回目。

さて、僕がFM SalusHawaii101FMで放送している、「Salus Beat Press」という
中華屋で飲んだ時に出てくるおつまみメンマみたいな存在の番組がありまして。
既に3年半程、サザエさんの真裏でひっそりと続いております。
この番組は、制作予算ゼロで作っておりますので
収録は株式会社SEVEN・青山スタジオ
ワンマンDJ(喋りながらミキサーを操作して、曲やアタックを操作する)スタイルで
しかも擬似生(要は一発録り)で制作しております。
社員が帰った後、独りの事務所で、窓を閉め切って録るという
非常にクラーい感じで作っているのですが、
先程録音中、収録機材がフリーズ。アッパレそれまでに録音した素材が吹き飛びました。
30分の番組の20分位のところまで録音が進んでいたのです。
最初から録り直しですが、最早その気力は僕には残っていません。
週末の青山、おそらくあちこちの隠れ家的Barでは
オシャレな男女が、イケてる会話や、ステキな恋の駆け引きを楽しむ深夜1時。
その一角で、こんなプチな、しかし当事者には未曾有の悲劇が起きているなんて
誰も知るべくは無いのです。
なのでムシャクシャしてブログに書くことにしました。
後悔はしていません。(今だけかも)
では皆様、素敵な週末をお迎え下さい…。