革ベルト強化週間。

さて、急に秋めいてきた今週の東京。
汗をかくことも減ってきたので、遂に革ベルトの時計を存分に楽しめるようになりました。
今週稼動したのは…。

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開幕戦はハミルトンのカーキ・ネイビー・GMT。実用に徹したデザインが非常にクールです。

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ハミルトンのマウント・バーノン。7750を積んだアメリカン・アールデコデザイン。
そして火曜日はブレゲ・アエロナバル!

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ジャケ・レマンの916Aも。せっかくのムーンフェイズが、月齢のせいで面白くない(笑)

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そして今日金曜日は、eposの3377。週末はワンハンドで余裕を見せたいというコンセプト。

…と、こんなラインナップでした。
まだまだ着けたい時計がたくさん。ホントにダブルリストにしたい位(笑)
気持ちのいい季節ですから、仕事も日常も時計も、いい塩梅で楽しみたいですね。
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木曜日に撮った秋空。綺麗です。

青山一丁目駅。

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当時とどの位変わっているのだろう?

さて、過去にもこのブログに書いたのですが
僕は浅田次郎氏の作品が大好きです。
特に「地下鉄(メトロ)に乗って」や「聖夜の肖像」(短篇集「月のしずく」に収録)、「沙高樓綺譚」などは
僕が拠点にしている青山界隈の描写が多いので、より身近に感じます。
(沙高樓綺譚については、モデルになったと勝手に推測しているビルが、弊社のすぐ傍です)
いや、もしかしたら
浅田作品に惹かれたが故に、僕は青山を拠点にしたのかもしれません。
うん、たぶんそうだな(笑)
で、弊社に程近い銀座線・青山一丁目駅が大好きです。
特に寒い冬の日の夜。
ホームに充ちている、あの気怠い暖かさだとか、独特の匂いが好きです。
「地下鉄に乗って」でいうと、佐吉が入営の為に下車したホームなので
その様子を想像したりします。
日本で一番古い地下鉄路線である銀座線は、どの駅もどことなくクラシカル。
そこに身を置いた時の奇妙な安らぎは、時間の懐に抱かれる心地良さなのかもしれません。
<以下まったくの余談>
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やっぱりカッコイイ♥

今日、ついにアエロナバルを着けました。
未だ残暑が厳しいのですが…もう辛抱タマらん!(笑)

秋の空に祈りを。

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昨日、収録の前に一服中、撮った写真です。
まだ暑いのですが、空の色はもう秋ですね。
東日本大震災から、もう半年が経ちました。
メチャクチャになった事務所で、寒さなのか恐怖なのか分からない震えに耐えながら
必死で連絡を取り合っていた日が、幻のように思える時があります。
しかし、被災地の苦難はまだ全くの現在進行形です。
そのことを忘れずに、大きな事でなくても、何ができるかを考えながら
日々過ごしたいと思います。
毎日の生活に、応援と祈りを込めて。
東北の人びとが、一日も早く日常を取り戻し
穏やかな心持ちで空を見上げることができますように。

思いもかけず。

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コタローさんとダーツノさん。ありがとう!

昨夜は渋谷で会食。
売れっ子放送作家のコタローさんと、これまた売れっ子ディレクターのダーツノさん。
じき祝言を挙げられるお二人と、楽しい時間を過ごしました。
お二人が尽力されている女川さいがいFMのお話や、千葉の某FM局と千葉県民の人生の連関(笑)
震災を軸としたラジオの話題、コタローさんの爆笑エピソードなどを伺っていたら
あっという間に時間が経ってしまいました。
その中で、コタローさんに不意に渡された紙の束。
なんだ?と見てみたら、96年から99年頃の九州朝日放送の営業資料でした。
僕がまだ同局に在籍していた頃。25歳から29歳くらいの間、毎日持ち歩いていたものです。
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僕が作った企画書のひとつが、一番左のもの。
コピーとかデザインの癖が、いまと変わらない(笑)

大量の企画書の中には、僕が作った企画書もありました。
それらを見ていたら、当時の仕事に懸ける想いだとか、仲間たちとの日々だとか
楽しかったこと、苦しかったこと、一生懸命だったこと、切なかったことなどの記憶が一気に溢れて
図らずも涙が出ました。
20代後半の、夢中で仕事をしていた頃の自分に突然逢えたのですから!
当時は胸の中に苦しいものを二つ、常に抱えていて
僕は仕事に逃げ込んでいました。
仕事をしている時は、苦しいことを考えずに一所懸命になれました。
仕事をしている自分には、必ず居場所があるような気がして
予定のない休日に耐えられない気持ちになると、無意味に会社に行って仕事をしたりしていました。
あれから15年近い時間が経ち、自分を取り巻く環境は殆ど全て変わりました。
働く場所も、生きる街も、挑むものも、共に歩む人も。
まるで過去と断絶するような選択肢ばかり選んだような気もします。
その選択には微塵の後悔もありませんし、自分の人生を肯定していますが
過去の記憶に触れると、それが失くした宝石のようで。
あの頃の僕が、いまの僕を見たら、どんな感想を持つんだろう?
そんなことを考えています。
コタローさん、ダーツノさん。
貴重な機会をありがとうございました。
お二人とご一緒して、得難い経験をさせてもらえました。
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ちょうどその頃の僕。残っている写真は仕事がらみのものばかりなんです(笑)

「もしも」の種。

人生の畝に、「もしも」の種を植えた。
それは、今まで自分が育てたことがない種類の種で
どうすれば芽が出るかが判らない。
もしかしたら、それこそ畑違いかもしれないな。
僕の畑では養分が足りないかも知れないし、
水の遣り方も、適切な季節も、陽当たりも解っていない。
でも僕は想像する。
この種が芽吹いたら、僕の人生はどうなるのだろう。
僕の人生に、どんな葉や蔓や枝が伸びて、どんな花が咲くのだろう。
その花は、どんな匂いがするのだろう!
その想像に遊ぶとき、僕はとても自由になれる。ワクワクする。
「もしも」の種は、思いがけないタイミングで、掌に落ちてくる。
もしあなたがその種を手にしたら、あなたはそれを植えますか?
枯らしてしまう可能性は高いけれど
それまでの時間を愉しむのは、心地いいものです。

Ask what you can do for your country.

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僕は言葉で自分の人生を切り拓きたい。

さて、随分前にちょこっとお話しした「新しいトライ」について
その初動となる論文を書き終えました。
早く書かなきゃと思い続けながら、日々の忙しさについつい流されてしまい
一時はトライそのものを諦めようかと思ったりしていました。
しかし、自分の人生の新しい扉を開くことになるかもしれないことを
面倒臭さで逃げたり、避けたりするような真似はしちゃダメだ、と考えて
ようやく締め切りギリギリで書き上げました。
まあ、大した分量では無いのですが。
40歳を越えて、これからの自分の人生を見通そうとしたときに
自分が社会とどう関わっていくのか、どのように貢献できるのかを考えることが増えました。
非力な自分が、何を出来るのか。どのように為すのが良いのか。
答えが出ている訳ではありませんが、じっとするのは止めようと思います。
そして、非力な自分を諾々と受け容れるのではなく、ちょっとでも良い方向に導いて
出来るだけ自分が生きる意味付けをしていきたいなと思います。
とにかく、賽は自分で振りました。
結果どうなるか…まあ、波風も立たずにオシマイ、の可能性も高いのですが
結果を楽しみに待ちたいと思います。

夏は往く。

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今日撮ったスカイツリー。夏空がよく似合います。

さて、今日は雑記。
・九段下の駅で
今日、収録に向かう電車が九段下駅に到着した時
向かいのホームに、街宣右翼の構成員と思しき3人の男を見つけました。
時期的に、靖国神社に参拝した帰りでしょうか。
物々しい制服に身を包んだ彼らの顔を見ると、いずれもあどけなさが残る少年たち。
おそらく18歳にもなっていないでしょう。
談笑する彼らの笑顔―おそらく、とりとめのない会話をしていたでしょう―を見て、ふと
70年近く前に、神宮で行進した学徒や
予科練の少年兵を見つめた当時の大人の視線を、自分の中に感じました。
靖国に祀られた英霊にも、彼らと同じ年端の少年たちが居ます。
時代の生贄となった彼らを思い、その犠牲の上に築かれた平和と繁栄を
どうやって僕達は次代に渡さなければいけないのだろう、と
複雑な気分になりました。
日本を愛し、日本人であることを誇る上で
いま、僕には何が出来るでしょうか。
無為徒食の不惑でいいのでしょうか。
・陽が落ちるのが早くなった。
今日は、レギュラーの収録が二本録りに変更。
その為、普段だと17時過ぎに終わる収録が、19時半頃までかかりました。
その時に、陽が落ちるのが早くなっていることに気付きました。
19時過ぎには、もう暗いんですね。
まだ暑い日が続いていますが、季節は確実に移ろっています。
・帰りの電車の中で
広告を見て気付いたのですが、
東武百貨店のワールド・ウォッチ・フェアは、18日木曜日からだそうです。
池袋店ですね。
ちなみに僕にとっての恒例行事、日本橋三越のワールド・ウォッチ・フェアは20日土曜日から。
今年はフランク三浦フランク・ミュラーが出展していますね。
ただ、昨年より更に出展メゾンは減っているような…。
昨年のジラール・ペルゴ、ゼニス、リシャール・ミルに続き、ジャケ・ドローも、
アニバーサリーイヤーのエベルも、ロジェ・デュブイ、コンコルド、コルムも消えています。
寂しいなぁ…。
今年はオーバーシーズとアエロナバルのダブルリストで行ってみようかしらん。
(そうでもせんと、ホントに無視されまくるのですよ…www)

三度読む本。

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精神状態のリトマス試験紙になるかもしれない。

30年ぶりくらいで、サン・テグジュペリの「星の王子さま」を読んだ。
最初に読んだのは、おそらく8歳か9歳くらいの頃。
自宅の書棚にあったのを見つけて読んだものだ。
おそらく、母親が自分で読むために購入したのだろう。
その頃の僕にとって、この本は非常に不可解な存在だった。
挿絵がいっぱい付いていて、平易な文章なのに、何が言いたいのかが解らないのだ。
結局さらさらと読んだだけだった。
それを40歳の夏に読んで、改めて驚いた。
筋書きも、挿絵も、どれもちゃんと覚えていたのだ。
30年前には、さして心に残った作品でも無いのに。
そして、40歳の僕が読んだ「星の王子さま」は
著者の伝えたかったことは解るし、僕なりの解釈も出来るのだけれど
ちょっと繊細過ぎて、感傷的に過ぎるなと思った。
その背景が透けて見えるような気がして、あまり刺さりはしなかった。
多くの書評は、王子さまとキツネの対話に軸足を置いているが
僕は王子さまとバラの関係性に一番印象を強く持った。
王子さまはキツネの言葉によって、バラへの愛の成り立ちに気付く。
確かに愛情の対象は、数多いる人間のうち、自分が「なつけないと」愛情の対象たり得ない。
それは(人間の愛情関係に置いては特に)相互に云えることで
ただ一方的に愛したり、愛されることによって関係性が永続することはない。
「なつける」ことは、愛情に水や陽射しを与えることに他ならない。
先日別のところで「『好き』の反対は『嫌い』ではなく『無関心』」という言葉を見た。
確かにその通りだな、と思った。
どれだけ強い愛情も、それに伴う執着も、例えば(相手の)情報や交流を遮断すればいつかは薄まっていく。
どこかでそれらを求める気持ちも喪っていく。
これも「なつける」ことと同義で、なつける為には…相手の関心を維持し、それを愛情として保つには
応分の行動や努力が必要になる。
それを絶った先にあるものは、平静ではなく虚であり、愛憎ではなく無関心だ。
王子さまは終章で、おそらくバラの許へと還る。
ただそこに肉体を伴うことは許されなかったと見える。
それはたぶんバラも同じことで
彼らが愛の本質に気付いたときには、それぞれが実体として邂逅するには余りにも距離が開いていた。
王子さまの涙は、その埋めがたい距離に対する後悔ではなかったか。
そんなことを考えながら読了し、一番思ったことは
この本を、65歳とか70歳とか、そんな年齢の時にもう一度読もう、ということ。
実はこれを楽しみにしている。
この作品は、全体としては強い感傷で染め上げられているけれど
話の軸が実は結構たくさんある。
僕が老いた時、その何処に一番強い興味を抱くのかが楽しみだ。
もしかしたら、終章の解釈(40歳の僕は、それを「肉体の死と精神の所在」で考えている)かもしれない。
そう考えると、読んだ年代、或いはその精神状態によって違う顔を見せる本書は
やはり名作だということなのかもしれない。
あのときの王子くん」(大久保ゆう氏による「Le Petit Prince」の翻訳)
↑青空文庫所蔵。無料で読めます。

気分のファシズム(7/31一部改訂)

※当初想定したより沢山の方々にこの記事をお読み頂いているようなので、より丁寧に
 文章が自分の思考をより正しく反映するよう、一部改訂しました。(7/31 3:05am)

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ファシズムは、正義の貌をしてやって来る。

震災直後から、Twitterなどで「気分のファシズム」という言葉を度々使ってきた。
それは、震災以前―恐らく、僕が気付くずっとずっと以前―から、この国に存在した。
それが福島第一原子力発電所事故などの深刻な事態を契機として、一気に表出してきた感がある。
実際には、小泉首相時の郵政選挙の時も、現政権与党が地滑り的勝利を得た時も
この気分のファシズムが作用したと僕は考えている。
個人的には、1993年の細川政権の誕生(つまり55年体制の崩壊)辺りには既にその萌芽があり、
95年以降のWebの発展がそれを加速・拡大させたような印象を持っている。
念の為に云っておくが、今回このエントリーを書くに当たって背景となった事象はたくさんあり
飽くまでも自分の中で、このワードが顕在化したのが今次の原発事故だというだけなので、
そこはご理解賜りたい。
(また全く蛇足だが、僕は原子力発電を推進する気はまったく無いし、
人間の安全保障を考えた場合、将来的に全廃するしか途は無いだろうと思っている。)

未曾有の危機に瀕した時、人々は救世主やヒーローの出現を待望する。
例えば昨今の空気に乗じて、ソフトバンクの孫正義氏や、フリージャーナリストの上杉隆氏、
元?俳優の山本太郎氏などが名を上げた。
僕は彼らが「発言すること」自体はなんとも思わない。支持もしない。
僕は僕なりに彼らの発言やその背景、事実関係などを調べ、考えた上で支持しないだけ。
とは言え、彼らの心情は理解できる部分もあるし、全てを否定するつもりもない。
支持しない、というのは例えば「全量買取制度を前提とした自然エネルギー産業への参入」であったり
「プロパガンダに逸脱した報道姿勢」であったり「県庁に突入しようとする直情的行動」というような
出力の部分などに拠るものが多い。「部分的には理解するけど、全体としては賛成しない」というようなもの。
それは飽くまで僕個人のスタンスであり、これを表現することはあっても、人に強要はしない。
僕が一番恐怖を感じるのは、彼らを支持する人々の一部に
極端な同調圧力を懸ける勢力が居ることだ。
その勢力は、明確に組織されたものではない。
誰か(その多くはジャーナリストやタレントなどの、比較的わかりやすい記号を持っている)の
意見や主張を軸に集合する、ヴァーチャルな勢力だ。
だが彼らの声はTwitterのタイムライン上などを跋扈して
自分たちと一致しない意見を持つ人々を徹底的に攻撃し、排除し、
社会的(或いはWeb社会的)に圧殺しようとする。
例えば「原発は現状全廃が難しい」という意見を、学者が云えば御用学者と指弾され
TVのコメンテーターが云えばマスゴミの陰謀だと糾弾され
一般の人がWeb上で発言すれば東電関係者か気狂い扱いされる。
彼らは自分「たち」の主張こそが絶対的な正義であり、
それに反する意見や主張は悪だと決め付ける悪しき傾向がある。
自分たちの正義にマッチする情報であれば、その出所が怪しかろうが持て囃されるし
その逆の場合は、どんなに客観的なデータであれ恣意的なものであると無視される。
対話ではなく同調だけが求められ、議論ではなくシュプレヒコールへの参加だけが要求される。
広瀬隆氏らが所謂「御用学者」などを刑事告発したことなどは
美濃部達吉の天皇機関説が徹底的に排撃された構造と何が違うのだろう。
表現者が対立する思考を犯罪と規定するのは、表現の自殺と同義であるとなぜ気付かないのだろう。
例えば先の九州電力のメール問題、原子力安全・保安院の中部電力へのやらせ要請など
実態としての問題行為は指弾されても当然だと思う。
彼らはその主張に本当に自信があるのなら、正々堂々と議論を挑めばいい。
ただ彼らの主張を検証なく叩き潰すような風潮が、彼らを隠蔽体質に追い込んだという可能性も排除できない。
その点からも、意見の表明や主張を「感覚的に」攻撃するのは間違いだと思うのだ。
そもそも正義に絶対性は無い。正義とは利害関係者の相対性でしか存在し得ない。
例えばイスラエル軍とパレスチナゲリラの関係だって、正義対正義の衝突でしか無い。
社会が成熟していく過程で尊重される「多様性」は、
「正義」が持つ一面性、その危険性を社会が認識しているからではないか。
ところが誰かをカリスマのように祀り上げ、支持者が一定量を越えると
その主張は絶対視され始め、急速に思考停止が拡がり、
主張への検証は為されないまま同調圧力だけが高まっていく。
それは約70年前、ファシズムが吹き荒れた時代と似ていないか。
誰かの主張や表現に、個人が同調するのはまったく自由だし、なんの問題も無い。
ただ、それを他人に強要したり、批判や他の意見の表明を封じることは許されない。
まして非同調者を攻撃することは、ファシズムの一端を担う非民主的行為であることを自覚すべきだ。
戦時、全体主義国家ならではの「大政翼賛会」を支えたのは国民だ。
ナチス・ドイツは最終的にどうなった?
大日本帝国はどんな末路を辿った?
そこまで考えなくたって、地滑り的勝利で政権を獲得した民主党の政権公約がどれだけ果たされて、
現状社会がどうなっているかを考えただけでも、一面的な正義が持つ危険性は理解できるだろう。
ところが、気分のファシズムは多様な意見の存在を認めない。
自分の支持する意見は無検証・無批判で迎合しがちで、
相対する意見は「根拠を出せ!」「その根拠は情報操作だ!」「そもそもお前は御用○○だ!」となりがちだ。
複数の意見・主張を並列的に検証することが非常に少なく、
下手をすると或る人の表現の表層や一部のみを論って苛烈に攻撃する。
これは文字数制限があるTwitter上で数々見掛けたのだが、
結論の部分では同じ事を言っている人に対して、
その人の一部の表現(それは度重なるRTなどで編集されていることも多い)を曲解して
「お前は○○だろう!」と真逆のラベリングをして、人格否定を伴う攻撃をしていることまである。
こうなるともう苦笑すらできない。
批判の前に、批判する相手の主張をひと通り読むことすらせず、相手を攻撃している訳だ。
何故そのようなことが起きるか。
気分のファシズムの温床になっているWeb上(特にTwitterなど)で考えてみると
・TL上のトレンドを把握しようとすると、まずはトレンドの対象となる事象や発言の要旨だけ目にする。
・TL上の個々の意見は、ソースはURLで記述され、テキストは感想や感覚などの表現が主になる。
・つまり事実関係よりも、それを取り巻いている「空気」や感覚を先に取得する。
・結果先入観が発生し、ソースを検証しないまま・或いは十分な思考を経ないまま、意見を表明する。
・するとソースに対する検証や思考、裏取りが非常に少ない状態で、空気だけが飽和する。
・そこに、何らかの記号を持った人(著名人など)が発言し、その空気と合致すれば一気に祀り上げられ
 逆の場合は炎上する。
こんな構造ではないかと考えてみた。
Twitterの構造が、事実よりも感覚を表現しやすく、それ故に検証よりも感覚の増幅が先行する。
最初に「震災以降、気分のファシズムが顕在化した」と書いたのは
おそらくTwitterのユーザー拡大と震災が、時期的にシンクロしているからだろう。
(事実、前月は減少していたTwitterユーザーは、震災の3月に急増している。ソースはこちら。)
事実の検証や、それに基づく思考によって自分の見解を構築するよりも
誰かの意見や主張に乗っかるのは、ある意味「ラク」な方法だ。
そしてその「ラク」が積み重なり、思考が不足した母数が一定のラインを超えると
無責任な感覚の集合体である「気分のファシズム」が出現する。
みんなこう思っている(はず)だから正しいんだ、という根拠なき正義が先鋭化する。
みんなこう思っている(はず)なのに、なんでお前は違うことを云うんだ?と
根拠なき感覚が、意味(或いは意義)のある意見を攻撃する事態が発生する。
でも、その頃には誰もがその「みんな」が空集合に過ぎないことを忘れている。
感覚の集積には根拠がなく、根拠のない主張には責任がなく、
責任がない方向には未来が無いことを忘れている。
社会の動きを知ろう。それを検証し、思考し、自分の意見を持とう。
その意見を以って他の意見を聴き、考え、検証し、議論しよう。
誰かを攻撃するばかりの人の言葉は、疑ってかかった方がいい。
誰かの言葉に同意するのなら、それは攻撃ではなく、建設的な意見を軸にした方がいい。
「貴方のこの点は賛成だけど、あの点は同意できない。なぜならこうだからだ。」と意見しあうことで
よりそれぞれが信じる正義の精度を高める努力をするべきだ。
現実と理想の乖離を防ぎ、実際に社会を変革するためのトルクを生み出すべきだ。
また、その「感覚の空集合」につけ込んで、その空集合に「ウケる言葉」で勢力を獲得しようとする
ポピュリスト達(しかも彼らは特定の思想や思考、利益の動機を持っている)が居ることも忘れてはいけない。
この国は、ここしばらく、ずっとこのポピュリストにいいように乗せられて
結果酷い目を見ていることを忘れてはいけない。
選挙にも行かずに社会を批判し、一方で誰かの意見に無思考に乗っかり、反対意見に罵声を投げつける
そんな大人にならないよう、もっと考え、検証し、他の意見を聴き、自分の考えを持ちたい。

パラダイム

3.11以降、自分のパラダイムが変わった…という方はいらっしゃいますか?
僕は当初こそ大きな変化を感じることは無かったのですが
震災から4ヶ月ほど経過した今、自分の40代をどう過ごすのかについて考える時間が増えました。
生活や仕事の上で、目に見えて変化した部分も多いからでしょうか。
そもそも僕は、31歳の時に新卒入社の会社を辞めてから
自分の居場所を中心としたパラダイムに対して、こだわりが少なくなったと感じています。
僕が僕として生きていける時間はそう長くないので、やりたいようにやってみようと。
30歳くらいまでは、自分の収入やステータス(この場合は「状態」としての意です)に
強い執着があったのですが、「なるようになるべ」と思うようになったのですね。
どちらかというと僕は自分を安定志向だと思っていたのですが
どうもそうではないようです。
結果、3年半ほど前に自分の会社を作り、いまはそれを生活の軸に据えているのですが
いま、ある仕事に対して強い興味を覚えています。
簡単に就ける仕事ではありませんし、元々は大して興味があった領域ではないのですが
3.11以降の膨大な思考の中で、徐々に自分の志向が変化していたところに
ピンとくる記事を見つけたのです。
ほど近い時期に、知人がその方向に進んだということも、興味の変化の理由としてあるかもしれません。
勿論、いまの生活は自分で選び、決めたものですから充分気に入っています。
ただ自分の人生に、もう一枚、新しいカードを追加しても面白いのかな、と。
良くも悪くも、僕は「走りながら考える」癖があります。
今回も、まずはトライするところから始めてみようと考えています。
結果どうなるかはまったく判りませんが、まあなんとかなるでしょう(笑)
失敗したら失敗したで、このブログのいいネタになるかもしれません。
興味を持ってしまった以上、やらないで未練を残すより
やってみてから慌てた方が自分らしくてイイなぁ、などと考えています。
あまりアタマのいい生き方ではないかも知れませんね(^^;)
人生の折り返し点を過ぎたばかり。
ここから自分がどんな生き方をするのか。
何処で、何をして生きて行くのか。
ちょっと楽しみです。