ハワイの番組を東京で聴く。

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iPhoneをお持ちの方は、ぜひ。

弊社では、2008年の10月から「Aloha Weekend」という番組を制作しています。
ハワイ州ホノルル市のH.Hawaii Mediaというラジオ会社と業務提携して、
同社の多言語ラジオ放送局・KPHIの放送枠を一部買い取り、
Hawaii101FMのブランドで日本語放送を実施し、その一部を日本の放送局に供給しています。
「Aloha Weekend」は、福岡のLOVE FM(福岡市/76.1MHz)で放送しています。
※日本ではひとつの会社が複数のラジオ局を保有することはありません(NHK除く)が
 アメリカでは1社で複数のラジオ局を保有しています。H.Hawaii Mediaの場合は8局あります!
※KPHIは、在ハワイの非英語話者の為のラジオ局で、タガログ語やスパニッシュなどの番組を放送しています。
※福岡の方は、LOVE FMの放送をradikoで聴くことが出来ますので、PCやスマホで
 お楽しみ頂けます。もちろん「Aloha Weekend」もです!

で、この「Aloha Weekend」。ホノルル市のダウンタウンにあるH.Hawaii Mediaのスタジオで収録し
東京の株式会社SEVEN本社で編集・完パケを行って、福岡のLOVE FMに納品しています。
ところが放送エリアの関係で、東京では実際に番組が放送されている状態を聴くことが出来ないのです。
福岡に出張した時などは、タイミングが合えば聴けるのですが、ハワイはそう簡単に行けませんし。
ところが、iPhoneに「TuneIn Radio」というアプリがありまして、これが世界中のラジオ局を楽しめます。
日本のラジオ局は権利の関係で殆ど聴けないのですが、約4,000局の放送を、ライブストリーミングで
聴くことができます。この中に、KPHIがラインナップされているのです。
そこで、今日早速聴いてみました。バッチリ聴けました。
これがハワイの空を電波に乗って送られているのだな、と考えるとちょっと嬉しいですね。
番組はこの10月に4年目に突入。リニューアルも予定していますので、ぜひ聴いてみてください!
【Aloha Weekend】
LOVE FM:Fukuoka,JAPAN
Every Saturday 01:00PM-01:30PM on 76.1MHz / radiko
Hawaii101FM (KPHI):Honolulu,HI. USA
Every Sunday 08:00PM-08:30PM on 101.5MHZ / 1130KHz / 792ch (Warner Digital 2)
※TunIn RadioでKPHIの「Aloha Weekend」をお聴きになる場合は、日曜日の午後3時となります!
※全国のラジオ局の皆様、弊社では安価にハワイ制作のラジオ番組をご提供できます。
 貴社の自社番組ラインナップに、ハワイ制作のアイテムを投入してみませんか?
 複数局様での共同ご発注もお受けいたします。詳しくはこちらをご覧ください。
※ちなみにこのTuneIn Radioで、僕がFM Salusでひっそりとやっております
 「Salus Beat Press」も聴くことが出来ます。こちらは土曜の22時と火曜の21時半です。

夏の終わりに


えーっと、こんな感じ?

8月最後の週末、仕事を終えて帰宅したら
「もしもの種」から郵便が届いていました。
残念ながら、種は芽を出さずに枯れたようです。
力及ばず。
まあ、この方面に関しては焦らず次の機会を待ちましょう。
さあ、また現実に戻るんだ!(笑)

「もしも」の種。

人生の畝に、「もしも」の種を植えた。
それは、今まで自分が育てたことがない種類の種で
どうすれば芽が出るかが判らない。
もしかしたら、それこそ畑違いかもしれないな。
僕の畑では養分が足りないかも知れないし、
水の遣り方も、適切な季節も、陽当たりも解っていない。
でも僕は想像する。
この種が芽吹いたら、僕の人生はどうなるのだろう。
僕の人生に、どんな葉や蔓や枝が伸びて、どんな花が咲くのだろう。
その花は、どんな匂いがするのだろう!
その想像に遊ぶとき、僕はとても自由になれる。ワクワクする。
「もしも」の種は、思いがけないタイミングで、掌に落ちてくる。
もしあなたがその種を手にしたら、あなたはそれを植えますか?
枯らしてしまう可能性は高いけれど
それまでの時間を愉しむのは、心地いいものです。

Ask what you can do for your country.

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僕は言葉で自分の人生を切り拓きたい。

さて、随分前にちょこっとお話しした「新しいトライ」について
その初動となる論文を書き終えました。
早く書かなきゃと思い続けながら、日々の忙しさについつい流されてしまい
一時はトライそのものを諦めようかと思ったりしていました。
しかし、自分の人生の新しい扉を開くことになるかもしれないことを
面倒臭さで逃げたり、避けたりするような真似はしちゃダメだ、と考えて
ようやく締め切りギリギリで書き上げました。
まあ、大した分量では無いのですが。
40歳を越えて、これからの自分の人生を見通そうとしたときに
自分が社会とどう関わっていくのか、どのように貢献できるのかを考えることが増えました。
非力な自分が、何を出来るのか。どのように為すのが良いのか。
答えが出ている訳ではありませんが、じっとするのは止めようと思います。
そして、非力な自分を諾々と受け容れるのではなく、ちょっとでも良い方向に導いて
出来るだけ自分が生きる意味付けをしていきたいなと思います。
とにかく、賽は自分で振りました。
結果どうなるか…まあ、波風も立たずにオシマイ、の可能性も高いのですが
結果を楽しみに待ちたいと思います。

夏は往く。

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今日撮ったスカイツリー。夏空がよく似合います。

さて、今日は雑記。
・九段下の駅で
今日、収録に向かう電車が九段下駅に到着した時
向かいのホームに、街宣右翼の構成員と思しき3人の男を見つけました。
時期的に、靖国神社に参拝した帰りでしょうか。
物々しい制服に身を包んだ彼らの顔を見ると、いずれもあどけなさが残る少年たち。
おそらく18歳にもなっていないでしょう。
談笑する彼らの笑顔―おそらく、とりとめのない会話をしていたでしょう―を見て、ふと
70年近く前に、神宮で行進した学徒や
予科練の少年兵を見つめた当時の大人の視線を、自分の中に感じました。
靖国に祀られた英霊にも、彼らと同じ年端の少年たちが居ます。
時代の生贄となった彼らを思い、その犠牲の上に築かれた平和と繁栄を
どうやって僕達は次代に渡さなければいけないのだろう、と
複雑な気分になりました。
日本を愛し、日本人であることを誇る上で
いま、僕には何が出来るでしょうか。
無為徒食の不惑でいいのでしょうか。
・陽が落ちるのが早くなった。
今日は、レギュラーの収録が二本録りに変更。
その為、普段だと17時過ぎに終わる収録が、19時半頃までかかりました。
その時に、陽が落ちるのが早くなっていることに気付きました。
19時過ぎには、もう暗いんですね。
まだ暑い日が続いていますが、季節は確実に移ろっています。
・帰りの電車の中で
広告を見て気付いたのですが、
東武百貨店のワールド・ウォッチ・フェアは、18日木曜日からだそうです。
池袋店ですね。
ちなみに僕にとっての恒例行事、日本橋三越のワールド・ウォッチ・フェアは20日土曜日から。
今年はフランク三浦フランク・ミュラーが出展していますね。
ただ、昨年より更に出展メゾンは減っているような…。
昨年のジラール・ペルゴ、ゼニス、リシャール・ミルに続き、ジャケ・ドローも、
アニバーサリーイヤーのエベルも、ロジェ・デュブイ、コンコルド、コルムも消えています。
寂しいなぁ…。
今年はオーバーシーズとアエロナバルのダブルリストで行ってみようかしらん。
(そうでもせんと、ホントに無視されまくるのですよ…www)

夏の時計2011

なんだか意味不明なタイトルですが…。
この夏は、これらの時計を着け回そうと思っています。
(…と言いながら、この二週間はずっとオーバーシーズでした)

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まず主力はこの4本。
ヴァシュロン・コンスタンタンのオーバーシーズは夏の筆頭。
グラスヒュッテ・オリジナルのスポーツエヴォリューション・クロノはラバーブレスなので
夏の間に使い倒さないともったいない!
オメガのスピードマスター・オートマティックと、シーマスター・アクアテラは
ガンダムでいえばザクとゲルググみたいな汎用性の高さが売りですな。
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で、次にこの2本。
エポスの3241RBMは、とにかく状況を選ばず使える心強いパートナー。
ブルガリ・エルゴンは、3/11の時に着けていたことから、ちょっとだけトラウマが…。
あと、腕が細くなってからちょっと着けづらい感じになってはいるのですが。デザインは最高。
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で、最後がこの3本。
レ・ジェネヴェはブレゲ風味が恋しくなった時のリリーバー。ブレゲ2本はどうしても夏は使えず…。
ロンジンのオポジションは、我が機械式時計ラインナップの最古参。痩せてからブレスのサイズが
ピッタリになったので、前線に復帰しました。
そして、スクランブル要員のセイコー・プレミアのSNP001P1。キネティック・オートリレーなので
止まっていても、ちょっとシャカシャカすれば動き出します。
パーペチュアル・カレンダー搭載なので、便利なことこの上なし。
それから忘れてはならない、フランク三浦。
この夏最も時計市場を湧かせている逸品ですな。
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革ベルトの時計が恋しくなることもありますが
たぶん9月下旬まではこの時計たちが活躍してくれることでしょう!

三度読む本。

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精神状態のリトマス試験紙になるかもしれない。

30年ぶりくらいで、サン・テグジュペリの「星の王子さま」を読んだ。
最初に読んだのは、おそらく8歳か9歳くらいの頃。
自宅の書棚にあったのを見つけて読んだものだ。
おそらく、母親が自分で読むために購入したのだろう。
その頃の僕にとって、この本は非常に不可解な存在だった。
挿絵がいっぱい付いていて、平易な文章なのに、何が言いたいのかが解らないのだ。
結局さらさらと読んだだけだった。
それを40歳の夏に読んで、改めて驚いた。
筋書きも、挿絵も、どれもちゃんと覚えていたのだ。
30年前には、さして心に残った作品でも無いのに。
そして、40歳の僕が読んだ「星の王子さま」は
著者の伝えたかったことは解るし、僕なりの解釈も出来るのだけれど
ちょっと繊細過ぎて、感傷的に過ぎるなと思った。
その背景が透けて見えるような気がして、あまり刺さりはしなかった。
多くの書評は、王子さまとキツネの対話に軸足を置いているが
僕は王子さまとバラの関係性に一番印象を強く持った。
王子さまはキツネの言葉によって、バラへの愛の成り立ちに気付く。
確かに愛情の対象は、数多いる人間のうち、自分が「なつけないと」愛情の対象たり得ない。
それは(人間の愛情関係に置いては特に)相互に云えることで
ただ一方的に愛したり、愛されることによって関係性が永続することはない。
「なつける」ことは、愛情に水や陽射しを与えることに他ならない。
先日別のところで「『好き』の反対は『嫌い』ではなく『無関心』」という言葉を見た。
確かにその通りだな、と思った。
どれだけ強い愛情も、それに伴う執着も、例えば(相手の)情報や交流を遮断すればいつかは薄まっていく。
どこかでそれらを求める気持ちも喪っていく。
これも「なつける」ことと同義で、なつける為には…相手の関心を維持し、それを愛情として保つには
応分の行動や努力が必要になる。
それを絶った先にあるものは、平静ではなく虚であり、愛憎ではなく無関心だ。
王子さまは終章で、おそらくバラの許へと還る。
ただそこに肉体を伴うことは許されなかったと見える。
それはたぶんバラも同じことで
彼らが愛の本質に気付いたときには、それぞれが実体として邂逅するには余りにも距離が開いていた。
王子さまの涙は、その埋めがたい距離に対する後悔ではなかったか。
そんなことを考えながら読了し、一番思ったことは
この本を、65歳とか70歳とか、そんな年齢の時にもう一度読もう、ということ。
実はこれを楽しみにしている。
この作品は、全体としては強い感傷で染め上げられているけれど
話の軸が実は結構たくさんある。
僕が老いた時、その何処に一番強い興味を抱くのかが楽しみだ。
もしかしたら、終章の解釈(40歳の僕は、それを「肉体の死と精神の所在」で考えている)かもしれない。
そう考えると、読んだ年代、或いはその精神状態によって違う顔を見せる本書は
やはり名作だということなのかもしれない。
あのときの王子くん」(大久保ゆう氏による「Le Petit Prince」の翻訳)
↑青空文庫所蔵。無料で読めます。

我、遂にiPhoneの軍門に下れり。

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目下使えるアプリを探しまくり中。

さて、僕はもともと電話が嫌いなこともあり
携帯電話は必需品ではあるものの、興味関心は殆どありませんでした。
従って、どれだけ売れてる売れてると云われ、現に周りがスマホだらけになっていっても
頑なに普通の携帯電話を使い続けておりました。
ガラケーなんて高級なものではなく、ほとんどらくらくホンみたいな端末です。
ワンセグ・おさいふケータイなんて以ての外。赤外線通信の使い方なんて今も分かりません。
一方でお仕事の関係上、その手のトピックを扱うことも多く
時間が経つに連れ、資料の内容がチンプンカンプンになっていくことに不安もありました。
構成担当として、分からない・実感を伴わない事象について、それっぽく書いたところで所詮は付け焼刃。
リスナーの方にそれが透けて見えては大問題です。
結果、どうしたもんかなァ…と若干不安な気持ちを抱えていたのです。
加えて、過去に各種Apple製品の使い方が分からず難儀したことが
iPhoneへの恐怖心を植え付けていたという事実もあります。
Macに向きあっては、マウスにクリックボタンが一つしか無いことに愕然とし
iPodは買ったものの、今ひとつクリックホイールの使い方が分からなくて投げ出してしまい
「俺にはWindowsPCさえあればいいんだ!」と半ば駄々っ子モードに突入していたのです。
iPhoneなどのマウスジェスチャーなんて、それはもう完全に理解出来ない機能でして
アルファ・ケンタウリ星人のお年賀の儀式なのではないか…という位遠い存在だったのです。
ところが先週、家人と雑談をしていたところ「スマホが欲しい」と言うのです。
かみさんはそんなモノには全く興味がないと思っていたので、大変驚くと同時に
これはもう完全にフォロワー層ですらスマホを使いこなす時代が来ているのだ!と考えました。
事ここに至り、まだ時期ではない等と自分に言い訳することは許されないと思いました。
で、昨日家人と連れ立って携帯電話ショップに行き、iPhoneを購入してきました。
この手のガジェットは、直ぐに使い方を覚えて、自分好みの設定をしないと気が済まない性質なので
睡眠時間を削り、ヒマさえあれば調べ物をして、徐々に慣れていこうとしております。
実際に使ってみると、ユーザー・インターフェイスには定評のあるApple製品。
説明書は殆ど要らないですね。番組台本を書くための資料によく書いてあった
「感覚的に扱える」という表現が、やっと実感を伴っています。
なんだこれならもうちょっと早くトライしておけば良かった、などと考えています。
僕はこれまで、鞄にノートPCを詰め込んで移動していたのですが
下手をしたらiPhoneだけで何とかなるかもしれない…と、アプリなどを調べています。
実際にはどんなものなんでしょうね。
取り敢えず同じタイミングで購入した家人よりは使えるようになりたいというのが、目下の目標です。

気分のファシズム(7/31一部改訂)

※当初想定したより沢山の方々にこの記事をお読み頂いているようなので、より丁寧に
 文章が自分の思考をより正しく反映するよう、一部改訂しました。(7/31 3:05am)

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ファシズムは、正義の貌をしてやって来る。

震災直後から、Twitterなどで「気分のファシズム」という言葉を度々使ってきた。
それは、震災以前―恐らく、僕が気付くずっとずっと以前―から、この国に存在した。
それが福島第一原子力発電所事故などの深刻な事態を契機として、一気に表出してきた感がある。
実際には、小泉首相時の郵政選挙の時も、現政権与党が地滑り的勝利を得た時も
この気分のファシズムが作用したと僕は考えている。
個人的には、1993年の細川政権の誕生(つまり55年体制の崩壊)辺りには既にその萌芽があり、
95年以降のWebの発展がそれを加速・拡大させたような印象を持っている。
念の為に云っておくが、今回このエントリーを書くに当たって背景となった事象はたくさんあり
飽くまでも自分の中で、このワードが顕在化したのが今次の原発事故だというだけなので、
そこはご理解賜りたい。
(また全く蛇足だが、僕は原子力発電を推進する気はまったく無いし、
人間の安全保障を考えた場合、将来的に全廃するしか途は無いだろうと思っている。)

未曾有の危機に瀕した時、人々は救世主やヒーローの出現を待望する。
例えば昨今の空気に乗じて、ソフトバンクの孫正義氏や、フリージャーナリストの上杉隆氏、
元?俳優の山本太郎氏などが名を上げた。
僕は彼らが「発言すること」自体はなんとも思わない。支持もしない。
僕は僕なりに彼らの発言やその背景、事実関係などを調べ、考えた上で支持しないだけ。
とは言え、彼らの心情は理解できる部分もあるし、全てを否定するつもりもない。
支持しない、というのは例えば「全量買取制度を前提とした自然エネルギー産業への参入」であったり
「プロパガンダに逸脱した報道姿勢」であったり「県庁に突入しようとする直情的行動」というような
出力の部分などに拠るものが多い。「部分的には理解するけど、全体としては賛成しない」というようなもの。
それは飽くまで僕個人のスタンスであり、これを表現することはあっても、人に強要はしない。
僕が一番恐怖を感じるのは、彼らを支持する人々の一部に
極端な同調圧力を懸ける勢力が居ることだ。
その勢力は、明確に組織されたものではない。
誰か(その多くはジャーナリストやタレントなどの、比較的わかりやすい記号を持っている)の
意見や主張を軸に集合する、ヴァーチャルな勢力だ。
だが彼らの声はTwitterのタイムライン上などを跋扈して
自分たちと一致しない意見を持つ人々を徹底的に攻撃し、排除し、
社会的(或いはWeb社会的)に圧殺しようとする。
例えば「原発は現状全廃が難しい」という意見を、学者が云えば御用学者と指弾され
TVのコメンテーターが云えばマスゴミの陰謀だと糾弾され
一般の人がWeb上で発言すれば東電関係者か気狂い扱いされる。
彼らは自分「たち」の主張こそが絶対的な正義であり、
それに反する意見や主張は悪だと決め付ける悪しき傾向がある。
自分たちの正義にマッチする情報であれば、その出所が怪しかろうが持て囃されるし
その逆の場合は、どんなに客観的なデータであれ恣意的なものであると無視される。
対話ではなく同調だけが求められ、議論ではなくシュプレヒコールへの参加だけが要求される。
広瀬隆氏らが所謂「御用学者」などを刑事告発したことなどは
美濃部達吉の天皇機関説が徹底的に排撃された構造と何が違うのだろう。
表現者が対立する思考を犯罪と規定するのは、表現の自殺と同義であるとなぜ気付かないのだろう。
例えば先の九州電力のメール問題、原子力安全・保安院の中部電力へのやらせ要請など
実態としての問題行為は指弾されても当然だと思う。
彼らはその主張に本当に自信があるのなら、正々堂々と議論を挑めばいい。
ただ彼らの主張を検証なく叩き潰すような風潮が、彼らを隠蔽体質に追い込んだという可能性も排除できない。
その点からも、意見の表明や主張を「感覚的に」攻撃するのは間違いだと思うのだ。
そもそも正義に絶対性は無い。正義とは利害関係者の相対性でしか存在し得ない。
例えばイスラエル軍とパレスチナゲリラの関係だって、正義対正義の衝突でしか無い。
社会が成熟していく過程で尊重される「多様性」は、
「正義」が持つ一面性、その危険性を社会が認識しているからではないか。
ところが誰かをカリスマのように祀り上げ、支持者が一定量を越えると
その主張は絶対視され始め、急速に思考停止が拡がり、
主張への検証は為されないまま同調圧力だけが高まっていく。
それは約70年前、ファシズムが吹き荒れた時代と似ていないか。
誰かの主張や表現に、個人が同調するのはまったく自由だし、なんの問題も無い。
ただ、それを他人に強要したり、批判や他の意見の表明を封じることは許されない。
まして非同調者を攻撃することは、ファシズムの一端を担う非民主的行為であることを自覚すべきだ。
戦時、全体主義国家ならではの「大政翼賛会」を支えたのは国民だ。
ナチス・ドイツは最終的にどうなった?
大日本帝国はどんな末路を辿った?
そこまで考えなくたって、地滑り的勝利で政権を獲得した民主党の政権公約がどれだけ果たされて、
現状社会がどうなっているかを考えただけでも、一面的な正義が持つ危険性は理解できるだろう。
ところが、気分のファシズムは多様な意見の存在を認めない。
自分の支持する意見は無検証・無批判で迎合しがちで、
相対する意見は「根拠を出せ!」「その根拠は情報操作だ!」「そもそもお前は御用○○だ!」となりがちだ。
複数の意見・主張を並列的に検証することが非常に少なく、
下手をすると或る人の表現の表層や一部のみを論って苛烈に攻撃する。
これは文字数制限があるTwitter上で数々見掛けたのだが、
結論の部分では同じ事を言っている人に対して、
その人の一部の表現(それは度重なるRTなどで編集されていることも多い)を曲解して
「お前は○○だろう!」と真逆のラベリングをして、人格否定を伴う攻撃をしていることまである。
こうなるともう苦笑すらできない。
批判の前に、批判する相手の主張をひと通り読むことすらせず、相手を攻撃している訳だ。
何故そのようなことが起きるか。
気分のファシズムの温床になっているWeb上(特にTwitterなど)で考えてみると
・TL上のトレンドを把握しようとすると、まずはトレンドの対象となる事象や発言の要旨だけ目にする。
・TL上の個々の意見は、ソースはURLで記述され、テキストは感想や感覚などの表現が主になる。
・つまり事実関係よりも、それを取り巻いている「空気」や感覚を先に取得する。
・結果先入観が発生し、ソースを検証しないまま・或いは十分な思考を経ないまま、意見を表明する。
・するとソースに対する検証や思考、裏取りが非常に少ない状態で、空気だけが飽和する。
・そこに、何らかの記号を持った人(著名人など)が発言し、その空気と合致すれば一気に祀り上げられ
 逆の場合は炎上する。
こんな構造ではないかと考えてみた。
Twitterの構造が、事実よりも感覚を表現しやすく、それ故に検証よりも感覚の増幅が先行する。
最初に「震災以降、気分のファシズムが顕在化した」と書いたのは
おそらくTwitterのユーザー拡大と震災が、時期的にシンクロしているからだろう。
(事実、前月は減少していたTwitterユーザーは、震災の3月に急増している。ソースはこちら。)
事実の検証や、それに基づく思考によって自分の見解を構築するよりも
誰かの意見や主張に乗っかるのは、ある意味「ラク」な方法だ。
そしてその「ラク」が積み重なり、思考が不足した母数が一定のラインを超えると
無責任な感覚の集合体である「気分のファシズム」が出現する。
みんなこう思っている(はず)だから正しいんだ、という根拠なき正義が先鋭化する。
みんなこう思っている(はず)なのに、なんでお前は違うことを云うんだ?と
根拠なき感覚が、意味(或いは意義)のある意見を攻撃する事態が発生する。
でも、その頃には誰もがその「みんな」が空集合に過ぎないことを忘れている。
感覚の集積には根拠がなく、根拠のない主張には責任がなく、
責任がない方向には未来が無いことを忘れている。
社会の動きを知ろう。それを検証し、思考し、自分の意見を持とう。
その意見を以って他の意見を聴き、考え、検証し、議論しよう。
誰かを攻撃するばかりの人の言葉は、疑ってかかった方がいい。
誰かの言葉に同意するのなら、それは攻撃ではなく、建設的な意見を軸にした方がいい。
「貴方のこの点は賛成だけど、あの点は同意できない。なぜならこうだからだ。」と意見しあうことで
よりそれぞれが信じる正義の精度を高める努力をするべきだ。
現実と理想の乖離を防ぎ、実際に社会を変革するためのトルクを生み出すべきだ。
また、その「感覚の空集合」につけ込んで、その空集合に「ウケる言葉」で勢力を獲得しようとする
ポピュリスト達(しかも彼らは特定の思想や思考、利益の動機を持っている)が居ることも忘れてはいけない。
この国は、ここしばらく、ずっとこのポピュリストにいいように乗せられて
結果酷い目を見ていることを忘れてはいけない。
選挙にも行かずに社会を批判し、一方で誰かの意見に無思考に乗っかり、反対意見に罵声を投げつける
そんな大人にならないよう、もっと考え、検証し、他の意見を聴き、自分の考えを持ちたい。

オーバーシーズ・レビュー#2

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「普通だけど精緻」な点が好きなんです。

さて、ヴァシュロン・コンスタンタン:オーバーシーズ(Ref.42042/423A)のレビュー。
今回は後半戦です。
37mm径なのに、意外とボリューム感がある…とお話ししたこの時計。
本来時計が実寸より大きく見えるときは、
ベゼルが薄く、かつ文字盤がシンプルであることが多いと思います。
実際僕が持っている時計の中だと、オメガのシーマスター・アクアテラ
ブレゲのクラシックなどは、そのようなデザインになっています。
ところがこのオーバーシーズは、そんな「定石」からは外れているんですね。
まずベゼルは、マルタ十字と共通する複雑なラインを象っていますし
文字盤には大きなアラビア数字のインデックス。更にその外周には5分おきにピラミッド型のインデックス。
3時位置にはカレンダーの窓が開き、12時位置にも6時位置にも二行ずつプリントがあります。
これだけ要素が盛り込まれているのに、なぜ大きく見えるのか?これが目下の謎です。
ケースデザインにお詳しい方、ぜひご教授ください。
そんなオーバーシーズの文字盤は、時として「ガワだけ自慢の雲上時計」と揶揄されるヴァシュロンだけに
(もちろん、実際にはそんなことないと信じていますが)非常に完成度が高いです。
第一、これだけてんこ盛りの要素をよくこの狭い面積にまとめられるものです。
この世代のオーバーシーズはバーインデックスが主流ですが、僕は圧倒的にアラビア数字派。
デザインの方向性がブルガリ・エルゴンに似ているので、ラインナップの中で重複を避けたいのもあります。
数字インデックスには夜光塗料が盛ってあり、夜間の視認性は上々です。
また、外周のピラミッド型インデックスはエッジが鋭く、しかも非常に綺麗に磨かれているので
文字盤を傾けるたびにキラキラと輝いて印象的です。しかしギラついた感じがないのもいいところ。
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一番仕事が細かいのはやはりマルタ十字。

メゾン銘を見ると、マルタ十字は立体感・エッジ共に申し分ない素晴らしい出来ですが
「VACHERON CONSTANTIN」などのプリントは結構危うい感じがします。
文字数が多いことからくる限界だと勝手に解釈しているのですが、最近のランゲなんかは
この辺の処理も凄いので、現行オーバーシーズの仕上げを見てみたいなと思いました。
針はまるで折刃式のカッターのような見かけ(なに針と呼ぶのかが分かりません)。
時針・分針・秒針ともに細やかで精緻な印象を持てるもので、長さも適正だと思います。
敢えてケチを付けるとしたら、分針だけ、あと0.3mm程度長くても良かったのかな。
但しカレンダーは不要です。窓の処理は丁寧だと思いますが、この時計は三針のみでよかったのでは。
またカレンダー板の背景が白である点、フォントが普通すぎる点もちょっと萎えます。
ヴァシュロンのエレガンスを演出する為には、カレンダーは蛇足なのではないかと思います。
なんじゃのかんじゃのと申して参りましたが、
やはりヴァシュロン・コンスタンタン。精緻さから来る雰囲気は素晴らしいです。
ブレゲもそうですが、この「精緻さ」が時計の品格を大きく左右しているのでは無いでしょうか。
リーズナブルな価格帯の時計ではロンジン辺りが頑張っていますが、その差は大きいです。
40mm前後のカンバスにどのような要素を配置し、それらを美しくまとめ上げるかという作業は
全体のデザイン力や、各パーツの加工精度・セッティング能力がモノを云うなと思いました。
但し、ロレックスやブライトリング、パネライのように人目を惹くような派手さ、分かりやすさは皆無です。
吊り革バトルがしたい!という方にはまったくオススメできません(笑)
この時計は、飽くまでオーナーが独りでニンマリするための一品であると思います。
まあ、カラトラバだってブレゲ・クラシックだってそんなものでしょうね。
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薄型のCal.1311のおかげで、ケースは非常に薄いです。クォーツみたい。

そうそう!この時計が届いて、一番最初にTwitterにその旨書き込みましたら
ヴァシュロンの公式Twitterアカウントからメッセージを貰っちゃいました。これも嬉しかったですね。
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ビックリしました。

ヴァシュロンをゲットしたら、とりあえず英語でつぶやいてみるといいかもしれません(笑)