この写真さえ、情報としてどう捉えられるかを考えなければ。
間もなく、
米国の同時多発テロから6年を迎えようとしている。
2001年9月11日の深夜、残業から帰ってきた部屋のTVに映し出された映像は
ハリウッドのどんなプロデューサーさえ思いつかないダイナミズムを持つものだった。
かつて神戸で見た、阪神大震災で崩壊した街と同様、僕の想像を遥かに超える衝撃だった。
SF映画で描かれるスペクタクルでは、主人公のヒロイズムに隠されてしまう
人々の血の匂いと絶望の叫び。そして死と、想像出来ないほどの不条理な哀しみが満ちていた。
あの日以来、世界は明らかに不穏な方向に走っている気がする。
それ故に。
メディアに携わる身として、時々「情報は人を幸せに出来るのか」ということを考える。
先史の頃から、情報を持たない大衆は常に虐げられ、不利益を被ってきた。
しかし為政者に搾取される大衆は、情報を持つことで自らの運命を変えてきた。
グーテンベルクが活字を発明し、出版の隆盛はやがて新聞というメディアを生み出し
電気通信の技術は
グラハム・ベルやエジソンにより、メディアに強大な力を齎した。
遠い街で起きていることをリアルタイムに知ることで、人は世界の動きだけでなく
社会を恣意的に運用する存在の悪意を知り、手遅れになる前に対抗することができた。
21世紀に入り、インターネットという新しいメディアを得て
今や12歳の少年でさえ世界中に情報を発信し、世を驚かせることができる。
欧米の市民革命だって、日本の明治維新だって、東欧の民主化だって、
活字やメディアの力がなければ起きなかった事象だろう。
メディアの発達は、人々の幸福追求の思いが後押ししたと云えるだろう。
「ジャーナリストは民主主義の下僕である」という言葉が、それを端的に顕していると思う。
ところが、最近は情報が人の悪意を拡大し、暴発させるトリガーになっている事象が多い。
昨日裁判にかけられたある男は、社会への逆恨みを、電車内での自爆テロで晴らそうとした。
自爆テロという手法、爆弾製造の手法はWebで得たらしい。
或いは携帯サイトで知り合った見ず知らずの男たちが、何の罪もない女性を殺す。
おそらく彼らは、独りでは人を殺すなどという行動は取ることができないだろう。
2ちゃんねるで繰り返される犯行予告とその結果は、
誰でも参加できる「究極の民主的メディアでの情報発信」という形で
自己の歪んだレゾンデートルを満足させるものではないか。
もっと大きな話をすれば、自由主義と共産主義のイデオロギー対決が終結した後の
宗教対立―主にイスラム対非イスラムの―は、「情報」が煽り、加速させてはいないか。
情報を流通させるメディアに悪意が無いとしても、世界各地で発生する過激なテロリズムや
それに対する報復は、メディアを通じて瞬時に世界に配信され、眠っている誰かの悪意を呼び覚ます。
そんな可能性があるのではないかと思っている。
例えば中国の
金盾のような情報制御が、かの国の真の民主化を妨げていることには間違いないが、
その一方で
アルジャジーラで放映されるテロリストの犯行声明が、過激な
インティファーダを惹起し
異なる価値観の対立(憎悪の方が正しい表現か。)を加速させてはいないか。
※誤解を避けるために敢えて記述するが、これは「寝た子を起こすな」的議論ではない。
暴力の高度化・大規模化に対する懸念であると受け止めて欲しい…難しい書き方だけど。
また或いは、湾岸戦争以降より強くなっている「戦争のTVショー化」というものや
ゲームやエンタテインメント等が、死の持つ意味や暴力が持つ不条理を軽いものにしていないか。
これ位の力で殴れば人は死ぬ。
そんなことさえ分からない人間が増え、世に殺人は加速度的に増えていく。
それが個の殺人であれ、戦争の大量虐殺であれ。
情報は情報でしかない。
ただ、それを伝えるメディアは「演出」を排除することはできない。
言葉の選び方、カメラのフレーミング、映像の編集、BGMの選択。
これらには全て、制作者の意図が絶対に入る。
カメラの定点観測でさえ、そのカメラの設置位置に制作者の意図があるのだから。
メディアマンは―否、ジャーナリストは、その「無意識の演出」の危険性を意識しなければならない。
今や、僕たちは地球の裏側で起きた些細な出来事さえ、発生から10分で知ることができる。
それ故に、自らが送り出す情報が、誰にどのような形で受け止められるかの想像力を要求されると思う。
今、僕たちは、情報が持つ可能性と危険性を天秤に掛けなければならない。
それはギリシャ神話の
アストレイアの天秤にこそ似ているものの
死者の魂を量るものではなく、人を幸福にするための秤でなくてはならない筈だ。
米国同時多発テロから6年。
かの悲劇の地、グラウンド・ゼロに建つ「
フリーダム・タワー」の名の通り
いつか人類すべてが、平和のうちに自由を享受できるように
メディアマンとして、その礎石たる矜持を以って働けるように、頑張ろうと思う。